テキスト置場

最近の見出し
主な見出し
假名遣の歴史
カテゴリー
 | 

2009-04-28假名遣の歴史 附録一 文部省の假名遣改定案を論ず

新聞の報道する所によれば、大正十三年十二月二十四日文部省臨時國語調査會は文部大臣以下參列の上總會を開き、滿場一致を以て國語及び字音の假名遣の改定案を可決したりといふ。かくてその改定案なるものは二十五日以後の國民新聞によりて報道せられたり。今これに就きて熟讀するに、吾人が學術上の立脚地より見ても國民の一員として見ても、遽に是認し得べきものにあらざるを以て、その理由を明かにして世論に訴へむと欲す。

第一 假名遣改定の權能何處にあるか

余は先づこの假名遣を改定する權能の何處に存するかを知らむと欲す。今吾人は新聞紙の報道によりて國語調査會がこの案を決議したるを知れり。然れどもこれが案たる以上實行の能力は何處に存するを知らず。然るにこの決議はたゞ國語調査會の意思表示たるに止まらずして、これを國民に實行せしむることを目的とせる由に新聞紙は報ぜり。果して然らばこの國語調査會は國民にその新に定めたる假名遣の實行を強要する權能あるものなりや。

假名遣の改定案は若し實行と否とを問はず、單に國語調査會が決議せしのみといふ事ならば、吾人がこれを大事件と思ひて論議することは聊か滑稽の感なきにあらず。然れども政府が巨額の國費を投じてさる遊戯に等しき事をなさしむべき筈もなく、委員諸公も亦さる無用の事に貴重の時間を費さるべき筈もなきなり。されば人ありてこの國語調査會の決議即ち國民に實行を義務として課するものなりといはむか。これ決して不條理の観察にあらずして寧ろ當然の観察なりとす。然れど今の國語調査會の官制を見るに「普通に使用する國語に關する事項を調査す」とありて、一種の調査機關に過ぎずして、國民に強要すべき事項の決定をなしうるか否かは疑はしきことなりとす。

抑も民族常用の文字の如きは官府の力、法令の力を以てして、直ちにこれを改廢すべき性質のものにあらざるは明かなる事實なり。文部省は假名遣の改廢を數囘企てゝ、しかも常に失敗せり。然るに拘らずこりずまになほこれを企つるものは抑も何の信ずる所あつてぞ。惟ふに本邦に漢字入りて後襲用久くして、その繁に堪へずして假名を案出せり。この假名はその發明者と称せらるゝもの一二傳へられるども、これたゞ傳説たるに止まり、事實は民族の要求によりて徐々に完成せられたるものといふを妥當なりとす。かくの如く文字言語の如きは自然の推移に待つべきものにして、人力を以てしてはたゞその方針を示して邪路に陥るを防ぐに止まるべきものなり。しかるを一挙にして根本的に之を改めむとするが如きは、政治上の大革命に乘ずる場合の外には夢想するだに難しとする所なり。否、政治上の大革命に乗じてもなほ且その事を遂げ得べからざるは、かの秦始皇の暴擧の顛末を見ても思ひ半に過ぎむ。實に言語文字の改革の如きは非常に變態なる事情の存せざる限りは決して強制的に行ふべきことにあらず。若し強ひて平地に波欄を起すが如き事をなして之を強制する事あらば、その反動はゆゝしき大事件として起るべきを十分に覚悟せざるべからず。

第二 改定の必要何處にあるか

假名遣を改定する必要若しありとせば國語調査會はその必要なる理由を報告して十分に國民に知らしむべきものなり。この報告の類續々として出で、國民がその必要を十分に感じて後にこそ其の改定の目的は自然に達せらるべきものなれ。然るにこれが報告は吾人未だそのありし事を知らず。その必要を感ぜざる國民に如何に改定を強要すとも、そは勞して效なきものといふべきなり。然るに新聞上に同會の要路の言として假名遣の改定の必要なる事は既定の事實にして今や實行の時期に入れりといふやうの言あるを見たり。然れどもその新聞の報道は信ずべからぬものと思はる。何となれば、假名遣改定の必要は既定の事實として國家はた國民の公認を経たりといふ事あらざればなり。

抑も文部省が明治維新以後遵守し來りし假名遣の改廢に着手せしは明治三十三年小學校令施行規則制定の際にその附表第二號に於いて字音に棒引を用ゐたる時にはじまるものにして、これが實施の結果かへつて學校に於ける假名遣の混亂を惹き起したるによりて、それの弊を矯めむと称して國語の假名遣をも同時に改めむとの意志を以て、明治三十八年に至りて一の案を製して國語調査委員會と高等教育會議とに諮問せしがその案は今の改定案と大同少異のものなりしが、朝野の反對に遇ひ、終には帝國議會の問題とまでなりしものなり。かくて明治四十一年に至り、文部省は窮餘の一策として別に假名遣調査委員會といふを設け、新に折衷案を作りてこれに諮問せしが委員會を開くこと五囘にして大勢文部省に非なりと見てか、その案を撤囘し「ついで委員會も廃止せられたるものなり。これより後かくの如き假名遣の改定が再び起るべしとは豫期せられし事にはあらず。然るに今にして改定の必要は既定の事なりといふを得べきか。吾人はかくの如き事は道路の風説にして當路者の言にはあらざるべしと認むるものなり。

若し、又この改定の必要が國語調査會に於いて既定の事となりてあるものならば、同會は既に今日までにその必要なる理由を國民に報告せざるべからざりしものなり。この事の順序を踐まずして今急遽としてこの案を決せるものは何の故ぞや。

假名遣改定の必要を説かむと欲するものは、先づそれぞれ學理上歴史上の調査を経たる報告を公表してその理由を國民に知らしむるを要する事は既に述べたる所なり。この調査報告は僅々一字一語の改廢に於いても必ず之を要するものなり。かくの如き調査を経、かくの如き公認を経て後、その改廢は決定的のものとなるべきものなり。而して假にその改革は決定的に必要とせらるとしても、その實行は徐々にせらるべきものにして、非常に多き事項を一擧にして改革するが如きは非常に愼重の態度をとらざるべからざるものなり。況んやその改廢が單に文字の置換たるに止まらず、言語の諸現象に影響するが如きことは、前後左右一切の場合を十分に考究してそれの處置を妥當ならしめて、後徐ろに決すべきことなるをや。抑も文字言語の改革の如きは一種の社會革命たるものにして、その措置はくれぐれも愼重に考慮すべく、決して軽率に實行すべからざる重大事件なりとす。

吾人は今囘の改定案を見るに先だちて、これに對して十分の調査の行はれたる事の何等吾人國民に公示せられたるものあるを知らず。而して今や國語及び字音の殆ど全般に亘りて根本的に改革を施さむとするにあらずや。かくの如き大規模の改革を遽然として一擧に行はむとするが如きはこれ一種のクウ・デタアにあらずや。吾人はかくの如きクウ・デタアを行ひてまでも改革を施すべき必要の存するを知らざるのみならず、かゝるクウ・デタアを行はざるべからざるまでに切迫せる事情あることをも全く知らざるなり。

今こゝに論議の必要上假りに數歩を譲りて、これが必要あるものとせむ。しかもその必要の理由は當局の示す所とならず。然れどもかつて文部省が改革を企てし時、その改革に賛成せしものゝ言論を概括するに、

一、假名遣はむづかしきによりて改めむとする説

二、假名遣は行はれざるが故に改めむとする説

三、假名遣を正しきものとするは迷へるなりとする説

四、言語に變遷あるによりその變遷に伴ひて改めむとする説

の四點に歸したりしが如し。今これにつきて意見を述べむ。

假名遣はむづかしきものなりといふ説は元來假名遣改革論者の唯一の論據とせしものなり。されどこの説は迷へるものなり。かくの如き論は全く感情論にして何等の根據あるにあらざるなり。字音假名遣の如きはむづかしといはゞ或はいはるべきが、これとても一定の條理をたどりて進めばさほどむづかしき問題にはあらず。されどそは姑く措き、國語の假名遣の如きは決してむづかしきものにあらぬは明かなり。すべて最初よりこれを無視する破壞論者にはその反對の對象は何等かの批難を附せらるべきは當然なるを以て、これらに對してその可否を問ふは無益なり。公平に考へてわが國語の假名遣は諸外國語の綴字に比して決してむづかしきものならざるのみならず、英語の綴字などに比ぶれば信に易々たるものなりとす。然るにこれをむづかしといふは要するにこれを用ゐむと欲せざるものゝ言のみ。若しその人にして信によくこれを知らむと欲せば、一週間にして國語假名遣を記憶せしむることを得るは吾人多年の經驗に徴して明かなり。若し又それが假りに難儀なりとすとも、一國の言語文字をたゞ難儀なりとして放棄するが如きは國民として斷じてあるまじき態度なり。かくてこの難儀なるによりて改廢せむとする論は成立せざること明かなるに至り、思慮ある改革論者は次の論旨を案出せり。

第二に出でたる改革論は從來の假名遣は行はれてあらざるが故に改めむとする説なり。この論者の假名遣の行はれてあらずといふ説は事實を誣ふるものなり。即ち次の如き諸點は現に行はれてあるなり。

一、ゐど(井) ゐのしし(猪) まゐる(參) ゐる(居)

二、すゑ(末)等

三、をか(岡) をけ(桶) うを(魚) あをい(青) をしい(惜)

四、ふぢ(藤)等

五、みづ(水)等

六、けふ(今日) きのふ(昨日)

七、ハ行四段活用動詞の活用の「は、ひ、ふ、へ」

八、形容詞の連用形の音便の「う」

九、四段活用動詞及び「ある」の未然形に「う」をつけたるもの

この九項にあげたるものは多少の教育ある人ならば十中の八九は誤らざるものなり。この事實は虚心平氣にして世人の記述せる文章を観察せば、直に首肯せらるべき明白の事項なり。而してこれらは國語調査會の國語假名遣の改定案の要部を占むるものなり。吾人はこれらが、行はれてあらずとは決して認むる能はざるなり。かくてこれらの事項以外の假名遣は實際上世人に誤用せられ易きは事實なること吾人これを否認せず。されどこの改革論者はこれらの語が何の故に誤らるゝかの理由を眞面目に考へたりや否や。惟ふにこれらのものを世人が往々誤るに至れるものは蓋し二の原因ありてこれを起すによるものなるべし。一は世の軽薄者流が、外國語といへば一字一句もこれに誤あらむをおそれ、戰々競々たるに反し、國語を尊重することを一種の恥辱の如くに考へ、細事に拘泥せざるを大人物の態度なりなど唱ふる弊風あるによりてこれを尊重するを憚らしむるものあるなり。一は假名と漢字と混用するが爲にして、この事寧ろ大なる原因なるべし。主要なる語に漢字を用ゐて其の意の通ずる如き現代の文章にありては、それらの漢字に相當する語に假名を用ゐずとも略ぼ用の達せらるゝは、これ現實の一大事實なり。この事相の改められざる限り、それら漢字に相當する假名は如何樣に改められたりとも、行はれずとせば、やはり行はれざるべし。而してそれら漢字に隠れざる語の假名遣は前述の如く國民的に生動せる事實を何人か否認しうべき。假名遣のむづかしといはるゝも、かく漢字に隱るゝ部分をば多くの人が無意識の態度を以て接せるに、遽にこれを正しく假名にて書けと迫らるゝが故に狼狽するのみ。然れどもこの理由を以て假名遣を改めむとするが如きは全く無意義の事に屬せずや。何となればかくの如く改めたりとも、その漢字を用ゐる限り同じ假名遣は實地の用をなすことなければなり。同じく實地に用ゐられずとせば、改むるも改めざるも同じく不要なれば歸する所は一にしてその改定は徒勞なるのみ。否、徒勞といはむよりも無用の勞を國民に強ひて二重の負擔をなさしむるのみならず、國語は混亂を起し、とるべき所は一も存せざるに至らむとす。この故に現代の文章に於いて假名遣のある部分が正しく行はれざることありとも、そはこれが改廢の理由にはならぬことなり。況んや凡そ正しき事は若し行はれずとせば、よくこれを行はるゝやうに努力するをこそ學者識者の任とすれ。少數の語に誤をなすを理由とし他の大多數の正しきものを改むべしとする理由何處に存するか。これ全くとるべからぬ論なりとす。こゝに於いてそれらの論者のうちには方向をかへて從來の假名遣は必ずしも正しきものにあらずとする論を生じたり。

從來の假名遣といふものは古來の國語學者が多年の研究を經て考定せし結果にして學術上正しと認められたるものなり。勿論多少未決の問題殘れりといへども、それが爲に他を正しきものにあらずとすることは論理上成立すべきにあらず。この故にこれを不正のものなりといふが如きは言語道斷の事にして、畢竟爲めにする所あるものゝ妄言なり。この假名遣は契沖以來幾多の學者の古語古書に標準を求めて正したるものにして、これを定家假名遣の如き獨斷的のものと同一視せむとするが如きは誣妄の甚しきものなりとす。而してこれらの論者は文字は表音的にすべきものなりと稱して、從來の假名遣をば歴史的假名遣などいふ新名稱を以てこれを呼び、暗にこれが過去の廢物なるかの如く世人に思はしめたる疑なきにあらず。されど、文字にしても言語にしてもそれが文化の存する民族に傳はれる限り歴史的ならぬものありや。かくの如きは言語文字の社會的歴史的に尊重すべき所以を忘れたるものゝ放言にすぎず。されども假名遣にかゝる名稱を與ふる人といへども、これを以て不正なりなど放言しうべき筈は寸毫も存せず。こゝに於いて論者は一轉して次の説を生ぜり。

この論者はいはく言語には變遷あり。假名遣はこの變遷に伴ひて改めらるべきものにして、假名遣の改定の必要こゝに存すといふものこれなり。假名遣改定論の最も理由あるさまに見ゆるはたゞこの一なるのみ。然れども吾人はこの論に無條件に賛同し得ざる道理あり。次にこれを論ぜむとす。

第三 改定の目的如何

言語に變遷あるは何人も否定すべからぬ明白の事實なり。而してこの變遷には言語の内容即ち意義の變遷と外形即ち聲音の變遷との二因子あるは明かなり。而してその變遷の假名遣と交渉を生ずる點は外形即ち聲音の變遷に存するはこれ亦明白の事なりとす。この故に言語に變遷あるを以てその變遷に伴ひて、その假名遣を改めむと欲すといふ論はこれ一往の道理ありて改定論中根據ある唯一の論なりとす。然れどもこの論者の所論は如何にして實現せらるべきか。

これらの論者の言論を総括するに、いづれもその目的を文字と發音との一致に置くものゝ如し。この事いふが如くに行はるべきものならばそれ或は可ならむ。しかもその可否を論ずる前に先づ顧みるべき二三の要點あり。

第一、文字は社會的歴史的の産物なり。この故にこれが根柢には國民の精神的生活の或物が附着してあることを忘るべからず。これ文字の改廢が破れ草鞋を棄つるが如きものにあらざる第一の事情なり。而してこの國民の精神的生活の或物は頗る根深き勢力を有するものにして、文字改革の言ふに易くして行はれざる所以實にこゝに存す。文字がかく社會的歴史的の産物にして國民の精神生活と深き關係ある事を顧みざる人々は、文字の革新を一擧手一投足の勞の如くに思惟するが如しといへども、その事を實行せむとするに及びて、意外の反動に逢ひてはじめてその根強き勢力に驚くべし。これ文字の改革が一種の社會革命なりといはるゝ所以にして、強ひてこれを企つるに至らば非常の事件を生ずるに至らむも知られず。この故にこれらの改革は理論上可なりとすとも、これが實行は徐徐にせざるべからざるなり。

第二、文字は固形的のものなり。しかるに聲音は流動的のものにして、極端にいへば、時々刻々變化するものといふを得るものなり。文字は固形的なるが故に一旦之を用ゐれば、その時よりして形を改むること無し。今某の時の某の語を某の文字を用ゐて記すとせよ。その當時はその音とその文字と全く同一なりとすとも、時を経るにしたがひて聲音は變遷し、終にはもとの形といたく異なる相を呈するに至らむ。しかも文字は依然として形を變ずること能はず。こゝに於いて某の語に與へられたる文字とその語をあらはす聲音とは或時期を経れば多少の差異を來すべきはこれ自然の事情なり。かくて文字は一旦これを用ゐればこれを改めむことは容易の事にあらず。この變遷止まざる聲音を寫すにこの固形的の文字を以てするものなれば、これ如何にしても多少の矛盾衝突の生ずべきは永久に避くべからざる所なりとす。

第三、以上の如くなれば、言文の不一致といふ事は實用上の文字を用ゐる限り永久に實現し得られざるなり。この故に言文の不一致はこれ永久的の事實にして、何人かゞ非常の英斷を以てこれが一致を企て一時これを爲果せたりとすとも、その翌日よりして早くも不一致の方途に進むものなることを忘るべからず。かくの如き事實は專門の學術を學ばむまでもなく、常識のよく知る所にあらずや。假名遣改定論者はかゝる明白なる事を知らざるべきにあらねば、その改革といふも、たゞ部分的のものに止まるべきものを、恰も純然たる發音通りの假名遣なるものが新に制定せらるべき如くに論ずるは、不用意の間に起りし事なるべけれども、人をして迷はしむる責は論者自ら之を負はざるべからず。

第四、この故に眞に絶対的に言文の一致を望まむとせば、從來用ゐられたる文字を顧みることなくして、たゞ抽象的に某の聲音に某の記號を用ゐるといふ如き機械的記號を案出し、これを言語の記號とすることなく、單なる聲音の記號としてのみ用ゐるより外に方法なきものなり。かくの如き機械的記號の標本は即ちかの聲音學に用ゐる記號にして、これらはその言語の如何を問はず。たゞ聲音の種種の相を標準として記載する主義をとれるものなり。かくの如きに至らば、これ即ち世界共通の聲音記號といふべきものなり。されどかくの如き記號は果して通常人の日常用ゐ得る所なりや。

第五、以上の如き主義を以て進まば、その發音の記號は吾人の現時用ゐるが如き少數のものに止まらざるべきは豫想し難からず。かの聲音學的記號を見て思半に過ぐべし。かの記號の如きはよく人の聲音の委曲を寫しうべしといへども、もとこれ學術の研究上繁雑を厭はず、正確と精密とを目的として定めたるものなれば、實用上の文字にあらず。而してその聲音學的記號の如き繁雑なるものは決して普通人日常の用として堪へ得るものにあらず。さらば實用上の文字を以てよく聲音を如實に寫し出し得るかといふに、これ亦一層繁雜にして、不正確の度は甚しきものあらむ。而してこれ亦常人の堪へ得る所にあらず。かの聲音學的記號はもと聲音學者が研究の方便として案出せしまでのものにして、世人の常用文字にかへむことは彼等の豫期せる所にあらざるなり。

第六、この故に世人日常の文字は古來決して聲昔を嚴密に代表せるものにあらざるは明かなり。然らば日常文字と聲音との交渉は実際如何なる状態にありやといふに、たとへばこれを母音にていはむに、通常ア、イ、ウ、エ、オの五の母音ありといふ。されど、これ實は世俗の見解にして嚴密に學術的にいへば開口の「ア」より合口の「ウ」に至るまでには多數の母音の遷移は存するなり。この事は西洋にては聲音學者の實証する所にして、わが國の母音にもかゝる現象の存するは疑ふべからず。たゞわが聲音學は未だ幼稚にしてこれを學術上に立証することは能はざるのみ。かくてこの多數の母音中よりその代表的の型をとつてア、イ、ウ、エ、オとしたるのみ。されば實際「ア」と書ける音にも「オ」に近きも「エ」に近きもあるべきはもとよりなり。その他の諸の假名またかくの如し。かくの如きものなれば假名を以て表音的に記すといふともそはたゞ比較的の事にして、これを以て絶對的に表音的なりと主張するを得るが如きものは一も存せずといふべし。

以上述べたる所を概括すれば、文字はこれを改革すること容易の事業にあらざると共に、言文の一致といふことはいふべくして實は行はるゝものにあらざるなりといふに歸す。然らば假名遣は全く改めざるを可とするかといふに必ずしも然らず。その改革にして眞に止むべからざる事情によるものならば、これを行ふには國語の本性に基づきてこれを害せず、國語の法則に依つてこれに戻らず、國語の歴史に照してこれに基づき社會の慣習を顧みてこれを調節し、而して後國民の公認を経、その後徐々に行はるべきものなりとす。勿論これが爲には正確にして親切なる調査を施して十分に社會の容認を経ざるべからざるものなり。

吾人は以上の前提を以てして、今の假名遣改定案を観察し、その果して賛すべきか否かを次々に縷述せむと欲す。

第四 現代の文章に於ける假名遣の實状

余はこゝに假名遣が眞に改定せざるべからざる事情に迫まられてありや否やの問題を、現代の文章に照して観察せむ。

假名遣改定案の凡例によれば、それは現代文の口語なるにも文語なるにも適用する由聲明せり。現代文といふ以上、上は詔勅法令より下は市井の地口駄洒落に至るまでを包含するものなるべきが、所謂文語の文章をこの案の如き假名遣を以てせば、恰も佛頭に糞するが如き醜状を呈すべきは明かにして、その事の行はれざるはいふまでもなければ、これは事々しく論ずるまでもなきことゝして論外にさしおかむ。

現代の文章の一體として口語體と称せらるゝものあり。これは口語體といはるゝものゝ、純粋なる口語の記述にあらず。これが文語と異なる点は「なり」を「である」「だ」「であります」の如き語に代ふると、用言の活用を口語の活用の形にせるとの二點を主たるものとして、その他は文語と大差なきのみならず、口語には全く用ゐぬ副詞用言等をもたゞ口語の形式として盛んに用ゐるものなりとす。されどこれらの文章の體裁は吾人の今の論の目的にあらず。

今以上の如き現代の諸の文章を通観して、假名遣の眞に必要として用ゐらるゝ點をあぐれば、要するに殆ど古来「てにをは」と称せられたる範圍に止まれり。なほこれが大綱をあぐれば、

一、助詞「が、に、を、へ、と、より、だに、さへ、ば、ども、は、も、等」

二、用言の活用及び世の所謂助動詞

三、接辞(接頭辞接尾辞)

等を主たるものとす。而して

一、體言。

二、用言の語幹

三、副詞の類

は大體漢字を用ゐてあるものなり。されば現代文の實際に於いて假名遣の難問となるべきものは殆ど一も存せざるは明かなり。なほ上の假名にてかけるもののうちに於いて假名遣の問題たるべきものをあぐれば次の如し。

一、助詞(四)を へ さへ は

二、用言の活用

 四段活用

  ハ行四段の活用  逢は ひ ふ ヘ

   ヤ行ワ行等に四段活用なければ、紛るべき虞なし。

 上一段活用

  ハ行上一段の活用 生ひる 強ひる 誣ひる

  ヤ行上一段の活用 射る 鋳る 老いる 報いる 悔いる

  ワ行上一段の活用 居る 率ゐる 用ゐる

   普通に用ゐるは上の數語にすぎず。

 下一段活用

  ア行下一段の活用 得る  の一語のみ

  ハ行下一段の活用 誂へる 抑へる の類

  ヤ行下一段の活用 覚える 消える の類

  ワ行下一段の活用 飢ゑる 植ゑる 据ゑる の三語のみ。

以上ハ行ヤ行の下一段活用が多少紛れ易き點あるのみなり。これとても文語に照せばハ行の方は「フ、へ」と活用し、ヤ行の方は「ユ、エ」と活用するによりて発音の差あるによりて紛るゝこと無し。若し又これを機械的に覚ゆるにしてもヤ行の語二十三四を覚ゆれば足れり。

以上の外には漢字交り文を用ゐる限り紛はしき假名遣は甚だ少しといふべし。而して世人はかくの如き程度にて紛はしき事も無くして現代の文章を草しうるなり。上述の數條の假名遣の如きをむづかしいといはゞ、天下にむづかしからぬもの一も存せずといふべし。

以上論ずる所によりて、現代の文章に於いて假名遣が實際に如何に用ゐられてあるかを知るべし。この故に現代の文章に於いて假名遣を改定せざるべからざる切迫せる事情ありといふことは吾人の信ずる能はざる所なりとす。

教育上の實際問題につきて考ふる場合にも上述の事實は十分に考慮せらるべきことなりとす。日常の必要なき假名遣に全力を注ぎて教へても彼等生徒は學術上の問題として記憶するに止まり、日常の實用に供せざれば自然にこれを忘れこれを等閑に附するもまた阻止すべからぬ事實なるべし。

この故に假名遣の励行主義と漢字交り文とは相容れざる點あるをさとるべし。したがつて、漢字を全廢して假名を專用すとせば、こゝに假名遣は必然國語の記載に關る當面の問題となるべきものなり。この故に今文部省が文章の記載を現状のまゝ漢字交り文として存続するものとせば、この假名遣改定案の過半はやはり何れにてもよき事にして、結局、上の助詞用言の活用の記載のみを改むる結果となるにすぎざるべし。

かく論じ來れば、今遽にかく假名遣を改定することは漢字全廃を豫想するものと判せざるべからず。若し果して然りとせば、これ假名遣改定よりも更に重大なる事件として國民全般の慎重なる考慮を経ざるべからざるものなりと考ふ。吾人は勿論國語調査會が漢字全廃の豫備事件としてこの假名遣改定を企てたるものなりと認むるものにはあらざれど、現代の文章に於ける假名遣の實状より推論すればかくいはざるを得ざるに至らしむ。若し又然らずとせば、徒らに平地に波欄を強ひて起すが如き疑は起らざるを得ざるなり。

以上現在の實状よりして假名遣の改定に迫られてあらぬことを察知すべし。されど吾人はこれを以て直ちにこの改定案に最後の断案を下すべからず。茲に方向をあらためてこの案に如何なる條理あるかを検せむとす。

第五 改定案に一定の標準ありや

今の假名遣案は何を標準として立案又議決せられたるものなるか。その凡例を見るに大體東京語の發音によりたりといへり。されば、かの改革論者の所謂表音的假名遣と唱ふるものなるべし。この故にそれらの實例を見るに「あおい」、「みよう」などの如く古来かつて見ざりし新形式を案出せり。これ即ちこれらの假名を以て音のまゝに書きあらはしたりとする所なるべし。果して然らば、これがうちに助詞の「は」「へ」「を」の三のみに古來の假名遣を保存する理由如何。これ表音主義を是なりと認めて古來前例なき新用法を案出せる國語調査會が、この三字のみに正しき假名遣を保存せるはその表音主義を破るものにあらずして何ぞや。更に又顧るに、助詞のうち「は」「へ」「を」の三語は改めずして「さへ」は「さえ」とせる理由如何。助詞はすべて改めずとならば、なほ多少の條理は存すと認むべきが、一を改めて三を改めざる理由如何。吾人は其の根據の奈邊に存するかを想像する能はざるなり。

これを以て察するに、この改定案には一貫の標準なきものなりといふべし。この故に吾人は更に方向を轉じて、その個々につきてその改革が合理的なりや否を討尋せざるべからざるなり。

第六 「ゐ」「ゑ」の廢棄

この改定案を見るに「ゐ」「ゑ」の假名は廢棄せられたるなり。世人は果してこれを是認するか如何。吾人かくいはば、國語調査會は或はこれらの假名は廢棄せるにあらず、使用せざるなりといはむ。然れども一時使用せずといふならば、廢棄とは異なりといふを得べけむかなれど、永久に使用せぬことを称して廢棄といふ以上、國語調査會がこの二字を廢棄せるにあらずして何ぞ。

抑もこの二字を廢棄する理由何處に存するか。國語調査會は或は使用せられざるが故にといはむ。されど

ゐど(井) まゐる(参) ゐる(居) すゑ(末)

の如きは現代人の使用してこれを誤るもの甚だ稀なるは極めて明白なる事実なり。使用せられざるが故に廢棄すといふ論は成立すべきにはらず。

次には「ゐ」「ゑ」の二音は発音上「い」「え」となれりといふ論あらむ。如何にも國語調査會の例示せる如きにはその如くに発音すといふを得む。されどこの文字のあらはす發音は國民間には存在せるものなり。これは少しく聲音學の智識を有するものならば、誰にも心づかるべきことなり。粗雑なる世俗的の智識を以て俗人にこの音の有無を問ひ、彼れらが無しと答へたりとて、直に無しとするが如きは大早計の事なりといふべし。眞に國語を発音通りに記述せむと欲し、又それによりて假名遣を定めむとならば、あらゆる発音を厳密に科学的に調査し、それらの有無変化等を十分に明らめざるべからざるものにあらずや。かつて國語調査委員會の調製せし聲音分布図の如きは根本的の調査を経たる資料にあらぬことは今更いふまでもなきところなりとす。この故に今急にこれを廢止するが如きは學術上大早計の事に属す。他日「ゐ」「ゑ」の音の國民的に存することの確証せらるゝに至らば今の國語調査會は如何にしてこれに處せむとするか。

かくて又「ゐ」「え」の廢棄よりして五十音図と伊呂波歌とは當然廃棄せらるゝに至らむ。國民は果してこれを容認すべきか。今伊呂波歌は姑く措き五十音圖の如きは國語の組織を説明せむが爲に案出せられしものにしてこれによりて國語の理法に幾許の便宜を与へたりや量り知るべからず。然るに、これらの論者は多くは五十音圖の如きは舊時代の遺物と貶して學術上何等の価値なきものゝ如くいへるもの多し。然るに今の改定案にア列、イ列、ウ列、エ列、オ列の名称を用ゐるはこれ何ぞや。これらは實に五十音圖によりて起れる名称にして、五十音圖を離れては意義をなさゞる語なるにあらずや。一方に五十音圖を破りながら、一方にそれによりて認めらるべき術語を用ゐることその矛盾撞着も亦甚しといふべきにあらずや。

第七 「ぢ」「づ」の廢棄

この改定案には「ぢ」「づ」を廢止せり。從來文部省より發案せる假名遣案にはこの「ぢ」「づ」の廢止を主張しつゝも多少の除外例を設けたり。然るにこの度の改定案には絶対的に廢止せるなり。この點は如何なる理由によれるかを知らずといへども、蓋し、これを使用するものなしとするか、若しくはこれが文字に相當する發音無しといふ見解に基づくかの二者のうちなるべし。今この事につきて論ぜむ。

先づこの「ぢ」「づ」の文字は現代人に略ぼ誤なく使用せられてあり、即ち

ふぢ(藤) わらぢ(草蛙) はぢ(恥) うづら(鶉) みづ(水) めづらしい(珍) まづ(先)

等の如きは殆んど何人も誤らずといふべし。たゞ時として「ぢ」「づ」の假名を誤るものは極めて用ゐること稀なる語、たとへば「よぢる」(口語に用ゐることなき單語なり)の如きものゝみなり。この故に現代人に誤用せらるといふは事實を顧みぬか、若くは知りても殊更に知らざるまねする人の言なりとす。

次にこの二字に相當する音なしといふ論につきては深く考へざるべからざる點あり。「ぢ」「づ」の二音が土佐國及び九州のある地方に存することは世人の熟知する所なれば、この音の現代の國語に存せずとは學者たるもの一人もいふもの無し。されども吾人はこの事實を以て直ちにこれが廃止に反對するものにあらず。吾人が反對を主張するは次の二の事項によるなり。

第一、九州の「ぢ」「づ」は吾人これを知らねど土佐に存する「ぢ」「づ」は實際に聞くに單なる「ち」「つ」の濁音にあらずして、寧ろ羅馬字にて、di, duと書くものに近き(全く同じといはず)ものなるを吾人は知れり。かくて「ち」「つ」の濁音なるものは思ふに決して現在の國語には全く亡びずして人々の「じ」「ず」なりと思へるうちに存することは疑ふべからず。すべて人の存すとせるものを否定せむものはそれが非存在を證明せざるべからず。これを精査せずして世人が「じ」「ず」と書くが故にこの區別なしとするが如きは學術を以て世に立つものゝ言にあらざるべし。前の國語調査委員會の音韻分布圖の如きは聲音學の心得なきものが、問ひに誘はれて答へたるまでのものにして、精密なる研究を経て答へたるものにあらざることは、地方の當時の應答者の實情を知れる吾人の明言するに躊躇せざる所なり。眞に學術上これが存在を否定せむ人は聲音學上の理法によりてこれを精査し、而してその非存在を證明せざるべからず。この討究を施さずしてら直にこれを廃棄するが如きは大早計に属す。

第二には國語には連濁といふ現象あり。連濁といふはもと濁音ならぬものが、語を組合するとき上の語の尾音との連續によりて下の語の首音が臨時に濁音となる現象をいふなり。而してその連濁は眞に一時の現象にして、その語は國民の意識内に活溌に生動するものにして、その組合せを解くときには濁音より清音に復歸するものなり。これ國語操縦上の一現象たるなり。然るにこゝに「ぢ」「づ」を全く廢して必ず「じ」「ず」を用ゐるとせよ。その連濁音の「ぢ」「づ」は必ず「じ」「ず」とせざるべからず。かくしてなれる語はその組合せを解く時に必然的に「し」「す」とならざるべからず。これ復歸にあらずして音の轉換なり。かくてもとの「つゑ」が「すゑ」となり、もとの「ちり」が「しり」とならざるべからざるの奇観を呈せむ。かくの如きは學理上あり得べき事にあらざるのみならず、國民の堪へざる所の壓制なり。

今、古語雅言など稱せらるゝ範圍の語を除き、又全く成熟したる語中の「ぢ」「づ」を除外し、國民が現に日常用ゐる語につきて連濁の現象を起すべき例をあぐべし。

ちかぢか(近々) ちりぢり(散々) 入れ智慧 猿智慧 附け智慧

はしぢか 手ぢかい (近) 弓張ぢやうちん(提燈) 葉ぢやや(茶屋)

酸漿ぢやうちん 緋ぢりめん(縮緬) 紋ぢりめん 馬鹿ぢから

飯ぢやわん(茶碗) 貰ひぢち(乳) 鼻ぢ(血)

等は「ち」の連濁音なるが、これを「じ」とかけ、而してこれを解き還元する時に、

「近」は「しか」「近い」は「しかい」「智慧」は「しゑ」「提燈」は「しやうちん」「縮緬」は「しりめん」力は「しから」「茶碗」は「しやわん」「乳」は「しち」「血」は「し」「茶屋」は「しやや」

とならざるべからず。又

つきづき(月々) 三日づき(月) つねづね(常々) 松葉づゑ(杖)

箱づめ(詰) 立づま(褄) 馬鹿づら(面) 鷲づかみ(掴)

丸づか(塚) 小づかひ(小遣小使) 手づかへ(支) 條件づき(付)

利札づき 醤油づけ(漬) 胴づき(搗) 手づくね(捏)

鬼づた(蔦) 木づち(槌) 小づゝ(筒) 紙づな(綱)

小づの(角) 手づよい(強) 氣づよい(強) くろづる(鶴)

鍋づる(鉉) こづらにくい 三人づれ(連)

等は「つ」の連濁なるが、これも亦「ず」とかかざるべからずとして、これを解體還元するとき

「月」は「すき」 「常」は「すね」 「杖」は「すゑ」 「詰」は「すめ」

「褄」は「すま」 「面」は「すら」 「つかみ」は「すかみ」 「塚」は「すか」

「つかひ」は「すかひ」 「つかへ」は「すかへ」 「付」は「すき」 「漬」は「すけ」

「搗」は「すき」 「捏ね」は「すくね」 「蔦」は「すた」 「槌」は「すち」

「筒」は「すつ」 「綱」は「すな」「角」は「すの」 「強い」は「すよい」

「鶴」「鉉」は「する」 「つらにくい」は「すらにくい」 「連」は「すれ」

とならざるべからず。而してかくなりたるものはもはや日本語にあらざるなり。

余がかくいはゞ、論者ありて或は「汝は強ひて反對せむが爲に、詭辯を弄するなり」といはむか。されどこれ徒に辯を好むが爲めにあらずして事實なるを如何にせむ。何となれば上にあげたる諸例の如きはみな吾人が國語操縦上随時組合せて連濁を起さしめたる現象にして、日常頻繁に起る事なればなり。

今われらは瓶に詰めたるものを一語にていはむとする時は「瓶詰」の語を用ゐる。この時には瓶に詰むるものなるが故に直ちに「びんづめ」と書くは自然の事なり。これ瓶詰といふ語が必ずしも過去に成立せずともいひ得る事なり。行李に詰むれば「行李詰」といひ、箱に詰むれば「箱詰」といひ、ぶりき鑵に詰むれば「鑵詰」とも「ぶりきづめ」ともいふ。この場合の鑵詰は既成の商品の鑵詰とは意義異なり。商品の鑵詰は既に成熟せる一の名詞なり。こゝの鑵詰は臨時につくりたる語にして固定的の語にあらず。かくの如きを吾人は國語操縦の過程中に起る随時の現象なりといふなり。その他「風呂敷包」「紙包」「大包」「小包」の「つゝみ」の如きまた然り。小包郵便の「小包」は一個の成語なり。されど上の種種の「つゝみ」の場合は異なり。この故にこれらの國語操縱の過程中随時に組合せ、又は離るゝ語は國民の意識内に活溌に生動せるものにして、その「つめ」「つゝみ」等は合成しても又單獨にても同一語にして、決して別語たる意識を生ずるものにあらず。然るに文部省の改定案に從へば、この「つゝみ」「つめ」等上にあげたる諸例の語は自由の操縦を阻止せらるゝことゝならざるべからず。加之現に「智慧」なり「月」なり「杖」なりと意識せるものを「じゑ」、「ずき」「ずゑ」と書くべしと強制したりとて果して國民の反抗を買はずして止むべきか。實にかくの如きはいふべくして行ふべからざる事なるのみならず、一は國語の組織を破るものなるべし。國語調査會には斯道の大學者を網羅せられたるに何故に連濁のこの重大事實を無視せられたるにか。これ或は連濁音といふ名稱にとらはれ、たゞ成熟語に存するものと認めて國語操縦の過程中に起る随時的現象たるものあることを忘れたるによるか。なほ一歩を進めて論ずれば、この連濁音を有する成語といふものは、本來この自由操縱によりてなれる臨時の組合せになれる語が、固定的のものとなりたる第二次的のものにして、連濁の本義はこの自由操縦の過程中に起る随時現象にありとす。この故に若し連濁音を固定せる名詞動詞等の内部の現象に止まるといふものあらば吾人はこれを目して未だ連濁の眞相を知らざるものといはむとす。

以上の理由によりて吾人は「ぢ」「づ」の假名は廢棄すべからぬものなりと主張す。

第八 「くわ」の廢棄

國語調査會の改正案には「くわ」の假名遣を廢止せり。これにつれて「くわ」の音も廢止すべきことはいふまでもあらざるべし。これが廢止の理由は蓋しこの音無しといふに歸すべし。

然れども「くわ」の音の全國に多く存するは事實なり。この故にこれらの廢止を主張する人はそが全國に存せぬといふ事と東京語に存せぬとの理由を以てこれに答へむとすべし。されど、東京語がしかく正確なるものなりや。東京語に存すると否とを以て絶對的の標準とせむことは危険なり。況んや世の文明に進むにつれて聲音も亦精密になり行くは必然の事なり。東京語に無くばこれを教へて可なり。過誤を知りて強ひてそれに傚ふの要何處にかあらむ。この「くわ」は字音にのみ限られたれど、吾人はこれを廢止することの文化の進歩に逆行するものなるを思ふが故にこれに反對を表明す。

なほ從來この「くわ」の廢止を主張せる論者の中にも、字音には廢止を主張して外國語の記載にはこれを採用すべしといへるものあるを見たり。かくの如き論者は外國語の記載法を制定せむ際には必ず「くわ」の存續を主張すべきこと明かなり。外國語の記載に「くわ」を用ゐ、國語化せる字音には廢すべしとせばその説自家撞着なりといはざるべからず。この故に吾人は假にこれを廢止すとしても、そは外國語の記載法の制定と相俟つものとして、これが廢止は尚早なりと主張するものなり。

第九 長音符の不合理

今、假名遣改定案を見るに、國語假名遣の部にありてその長音をあらはす方法を見るに、ア列長音には「ア」を長音符とし、イ列長音には「イ」を長音符とし、ウ列長音には「ウ」を長音符としたるは一貫の條理を認め得べし。然るにエ列長音には「イ」をその長音符とし、オ列長音には「ウ」をその長音符とせること理由如何。これ決して表音的といふことを得ざるなり。そのかくするに到りし理由は恐らくは字音の未尾は「イ」「ウ」を用ゐるによりてこれに準據せりといふにあるべし。然れどもこれ決して首肯すべからず。

字音の末尾に「イ」「ウ」を用ゐるは決してこれが長音符たるの故にあらず。たとへば、

英(エイ)計(ケイ)制(セイ)定(テイ)寧(ネイ)平(ヘイ)命(メイ)例(レイ)衛(ヱイ)

の如きは、今日の發音にては、いづれもエ、ケ、セ、テ、ネ、へ、メ、レ、ヱの長呼音の如くなれるもあれば、いかにもその「イ」がエ列長音の長音符たる姿を呈せりといふべし。然れども、これらは本來その假名の示すまゝに、エ列母音の次に「イ」音の來りたるさまに發音せられしものにして、決して「イ」が長音符の用をなしたりしにあらざるなり。今日にては「イ」がエの長音符の如く見ゆることありといへども、これ「エイ」「ケイ」等の字面が發音上「エー」「ケー」等とかはれるものにして、これも亦假名と發音との不一致を來したりし結果なり。この故にエ列の長音符に「イ」を用ゐるは字音の記載法に傚ふといふまでの事にして學理上の根據あるにあらざるなり。

次にオ列長音なる字音の末尾に「ウ」字を用ゐるも亦表音主義より見れば、不合理たるなり。字音の「ウ」のオ列長音の長音符の如く見ゆるものには、二樣の別あり。一はア列音の下に「ウ」のつけるものにして、

鸚(アウ)高(カウ)草(サウ)當(タウ)脳(ナウ)方(ハウ)盲(マウ)陽(ヤウ)郎(ラウ)王(ワウ)

の如き文字なり。これらは本來は假名の示す如く「アウ」「カウ」乃至「ラウ」「ワウ」等の如く發音せられしものなるが、慣用久しくしていつしか上の「ア」韻と下の「ウ」音とが相影響し融合してオ列の長音の如くになりしまでのものにして、「ウ」がオ列長音たることを示す作用をなせるものにあらず。これらの例を以て「ウ」にオの長音符たる資格ありとするは迷へるものなり。又オ列の音に「ウ」を添へたる字音あり。すなはち

應(オウ)公(コウ)送(ソウ)東(トウ)農(ノウ)奉(ホウ)蒙(モウ)用(ヨウ)樓(ロウ)翁(ヲウ)

の如き文字これなり。これらも本來は假名の示せる如くオ列の音の下に「ウ」を添へて正しく「ウ」を發音せしものにして、決してオ列の長音にてはあらざりしなるは、字音の歴史を知るものゝ誰も認むる所なり。それが慣用久しきにつれて、オ列の長音の如くなりしものにして、これにも「ウ」にオの長音たることを示す要素は無き筈なり。この故に「エイ」「ケイ」を「エー」「ケー」の如く發音するも、「アウ」「カウ」「オウ」「コウ」を「オー」「コー」の如く發音するも、いづれも一樣の事情によるものなり。その事情とは本來假名にて示す如くに發音せられしものが、慣用久しき間に一長音の如くなりしにて、これまた假名遣と發音との乖離に基づくものなり。然るに世人往々この理を忘れて「イ」をエ音の長音符「ウ」をオ音の長音符たる如く思へるは、これ即ち論者の所謂歴史的假名遣にあらずして何ぞや。實にこれを表音主義によりてあらはさむとし、而してア列の長音に「ア」を用ゐイ列の長音に「イ」を用ゐ、ウ列の長音に「ウ」を用ゐる主義を以て推さば、エ列長音には「エ」を用ゐ、オ列長音には「オ」を用ゐざるべからざるは理の當然なり。然るにこれを改めむとせずして以て表音主義なりと称せむとすとも誰かこれに心服せむや。字音の「イ」「ウ」を改むることなきは古來の慣例を重んじたりといはゞいはるべきが、國語にこれを及ぼせるに至りては吾人これを評する辭なきに苦しむものなり。

字音に於いてその表音主義をば末尾の「イ」「ウ」の形式に及ぼすことなき穩當の主義をとれるものならば、國語に於いても用言の活用などに變更を施さゞるを可とせずや。然るに改定案はこれらには顧慮すること無し。これを以て論ずれば字音には寛にして國語には酷なりといふ譏を免れず。よし其れらの點は姑く論ぜずとしても、その字音の形式を國語の假名遣に應用するに至りては、自己の論理を不徹底ならしむるのみならず、國語を以て字音の奴隷たらしむるものにあらずして何ぞや。

加之、上の如く「イ」「ウ」を「エ」「オ」の長音符として用ゐることはこれ一字一音の所謂表音主義に背馳するものにあらずや。同じ「イ」にして一方に於いては文字のまゝに發音し、他方に於いて「エ」の長音を示し、同じ「ウ」にして一方に於いては文字のまゝに發音し、他方に於いて「オ」の長音を示すこと、これ一字にして二樣の音を表明するものにあらずして何ぞや。かくの如きはその表音主義の下に於いても一貫の條理なきものといはるべきにあらずや。

要するに國語調査會のこの長音符に關する點は不合理自家撞著等種々の弱點を有するものたること明かなりとす。

第十 動詞の終止形を長音と稱することの不合理

改定案の國語表記通則といふを見るに、ア列、イ列、ウ列、エ列、オ列の五列にわたりて、その長音といふものあり。この長音といへるものにつきてその實例を見るに体言、用言等雑駁なれば、今先づその動詞に於けるものにつきて論ぜむ。

先づウ列長音としてあげたる例中

くふ(食)すふ(吸)ぬふ(縫)おぶふ(負)ゆふ(結)くるふ(狂)いふ(言)

等はハ行四段活用の動詞にして、調査會案に「う」とかける所はその終止形(連体形)の「ふ」を書き改めたるなり。かくの如くなれば、たゞ字面を見たるのみにては「う」と「ふ」との差のみの如くに見ゆれど、その説明を見れば、甚しき不合理の存するを見る。何となれば、吾人の見る所を以てすれば、この「ふ」はその用言の一活用形にして、音としては一個の音の価値を有するものなり。されば「くふ」「すふ」「ぬふ」「ゆふ」等の二音より成れる語にして、その「ふ」は事實上「う」と發音せられてあるは勿論なれど、その「くふ」「すふ」「ぬふ」「ゆふ」は「く」「す」「ふ」「ゆ」の長呼音にはあらず。又「おぶふ」「くるふ」は三音の語にして、その「ぶふ」「るふ」は二音にして「ぶ」「る」の長呼音にあらぬは明らかなり。これらの事実は明白なる事にして何人も否定し得べきものにあらず。然るに國語調査會はこれらをすべて一の長音とせり。長音といふことは世人には軽々しく見過され易きか知らねど、これは一音にして二音にあらぬことを言明せるものなり。かくてこれらが二音にあらぬことを言明せる確証は「いふ」を「ゆう」と改むべしといへるにても明らかなり。

今若し國語調査會の如く、これらを二音にあらずして一の長音なりとせば、これの動詞の活用は如何にして説明せられむとするか。殊に甚しきはかの「いふ」なり。國語調査會の案によらば、「いふ」は

未然形 連用形 終止形(連體形) 已然形(命令形)

いわ  いい  ゆう       いえ

とせむより外なかるべし。かくの如くにしてわが國語は甚しく不規則なりとせらるゝに至らむ。「いふ」の「ふ」が「う」の如くに發音せらるゝことは事實なり。又その「いう」が「ゆう」の如くに聞ゆるも事實なり。然れどもこれ「い」と「う」との相互の影響による臨時の現象にして、これを以て全く假名を改めて言語の組織を破るべきものにあらず。

次にオ列長音としてあげたる例中

うけおふ(請負) あらそふ(争) おもふ(思) まよふ(迷)

の數語も亦ハ行四段活用の動詞にして、調査會案に「う」とかける所はその終止形(連體形)の「ふ」を書き改めたるものなり。これも亦唯字面のみを見れば、単に「う」と「ふ」との差のみの如くに見ゆれど、この説明を見、又その實際を察すればウ列長音の例中にあげたるものよりも一層不合理なるを見るべし。先づこの「うけおふ」「あらそふ」「おもふ」「まよふ」等の「ふ」は本來一音たるものにして、これが「う」と發音せられてもなほ一音たることを失はず。然るに調査會案はこの「う」をばオの長音符として上の「お」「そ」「も」「よ」の長呼せらるゝものとせり。これ一方に於いては二音を一長呼音とせることの既に述べたる如き不理をなせると共に、これが眞に「お」「そ」「も」「よ」の長呼音なりとせば、「う」を書けることの不条理なるを思はずばあらず。かくてそれらは發音上明白に長呼して

うけおー あらそー おもー まよー

と呼ばざるべからざることゝなるが、かくの如き発音をこれらの語に實際なす人ありや。吾人はこれを知らざるなり。加之これが、眞に長音ならば、「う」をかくは人を迷はすものにして、既に述べたる如くに「お」をかくべき筈のものなり。されど吾人はこれらすべてを否定し、たとひ表音的にすとも、それらは「う」をかくべきものとして、その「う」は長音符にあらずして一音たるを失はぬものなることを主張す。

抑も假名遣といふものは何を目的としてあらはれたるものなりとするか、たゞ發音を忠實に記載すれば足れりとするものなりや。単に發音のみを機械的に記述する目的ならば聲音學的記号によるを可とせずや。されど假名遣は言語の記載をなすものにして、單なる聲音の記載にあらず。この故にこれが記載の方法は國語の法格に依拠してその範圍内に於いてなるベく發音に近きを求むるはもとより妨なしとす。然れども發音のまゝ記すと称して國語の法格を破壊せむが如きは断じて容すべからず。

かくてこの問題は「ふ」を「う」と改むるといふが如き一の文字の置き換へに過ぎざる如き小問題にあらずして、既にいふ如く、この「う」は長音符としての「う」なれば、「くふ」「すふ」等が二音なりや。又「く」「す」等の長呼の一音なりやといふ學理上の大問題をも含むものなりとす。吾人は國語の語幹と語尾との關係よりして、それが二音たるべきことを信ずると共に、それが聲音上にも現實に二音たるものにして、表音的に「う」とかくとしてもそは「う」にて一音をなすものなるを主張す。

この點に於いて國語調査會がその説を主張せむには、語法上の問題と發音上の問題との二重の點に於いてこれが合理的事實的なることを立証して、吾人をして首肯せしむべき責任を有するものなり。

かく論じ來りて、その改正案の國語假名遣の部の第六を見るに「うに發音されるふはうに改める」とある例に

あらう(洗ふ) まう(舞ふ) やとう(傭)

といふものあり。これによればその「う」は「ふ」の変化せるものにして、これにて一音をなすと認めたること明かなり。而してこれらの「ふ」はハ行四段活用の動詞の終止形の「ふ」なること明かなり。然るに既に述べたる如く「ウ列長音に發音されるもの」といへる第九には

くう(食ふ) すう(吸ふ) ぬう(縫ふ) おぶう(負ふ) ゆう(結ふ) くるう(狂ふ)

「オ列長音に發音されるもの」といへる第十の例中には

うけおう(請負ふ) あらそう(争ふ) おもう(思ふ) まよう(迷ふ)

といへる例あり。これらの諸例の「くう」「すう」等が長呼音にあらずして二の音たることは既に論ぜし所なるが、今國語調査會はその第六の例に於いて吾人が論ぜし如く、二音と認めたる証を残せり。然るに一方に於いては同様のものを長呼の一音とせること上の如し。見よ。

あらう まう やとう

の場合には「らう」「まう」「とう」が二音にして

くう すう ぬう おぶう ゆう くるふ うけおう あらそう おもう まよう

等の場合には、同じハ行四段活用の終止形にして、それらの二字が一音たるの理由果して存するか。ことに

  やとう

の場合

  うけおう あらそう おもう まよう

の場合と共に終止形の「ふ」の変形せる「う」にして、上の音が共に「オ」列の音なるに、一方は二音にして一方は一音なるの理由は、吾人の如何にしても首肯し得ざる所なり。これを以て察するに、國語調査會のこれらの音韻の説明はたゞ一時の思ひ付きにして深き根柢なきものにあらざるなきかを疑ふ。

 | 

2004 | 08 | 09 | 10 |
2009 | 03 | 04 | 05 |
2099 | 01 |

正字正かなバナー

舩木直人(funaoto@hat.hi-ho.ne.jp)