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2009-04-14假名遣の歴史 第二章

第二章 定家假名遣

余はこゝに所謂定家假名遣を以て假名遣を論定せしものゝ最初として論ぜむとするものなるが、或はこれより以前に既に之を論じたるものなきかの疑をいだくものあらむ。これにつきては先づ悦目鈔を一瞥せざるべからず。

悦目鈔は普通に藤原基俊の著と稱せられる。基俊は定家の父俊成の師たる人なれば、この人の書に假名遣の事ありとせば、その源頗る古しといふべし。而してこの書には

物を假名にかくやうは

といふ目ありて、

上にかくい 下にかくひ 口合にかくゐ

上にかくわ 下にかくは

上にかくお 下にかくを

上にかくう 下にかくふ

上にかくえ 下にかくヘ 口合にかくゑ

の十二字をあげたり。これはもとより假名遣を論定せりといふべきにあらねど、假名 遣方に於て、これらを問題とすべきことをいへるに似たり。果して然らば、これを假名遣に注意せし初めとすべきか如何。

今これを見るにその問題とせる假名は上の如く十二字にして五類の部門を立つべきものとす。然るときはこの時既にこの事ありきとすべきか。然るに、下にいふ如く定家假名遣に於いては

 い ひ ゐ

 お を

 え へ ゑ

の三類八字を問題とせるに止まれり。而してその後の増補にかゝる行阿の假名遣に至りては上の十二字五類よりも稍々多く

 ほ(を お)

 む(う ふ)

の二字を加へたり。これによりて之を察するにこの書に説く所は下にいふ定家の假名遣よりも後なるものといふべきなることを考ふべし。さればこの本を以て、後人の假託なりといふ説の、少くもこの點に於いては信ずべくして、これを以て假名遣に留意せしことを語る最初の文献とはいふを得ざるべきなり。

以上の如くなれば、なほ通説の如く定家假名遣を以て假名遣を論ぜし初めとすべきが如し。然るに、その定家假名遣と稱せらるゝものゝ實體は從來往々誤まり傳へられ、近時文學博士吉澤義則氏の研究の發表せられて稍世の迷を解きしにすぎず。この故に先づこの實體を明かにすべき必要あり。

定家假名遣と稱せらるゝものはその俗稱にして、その普通に世に知られてあるものは假名文字遣といふを本名とするものゝ如し。而してこれとても、所謂定家假名遣といふ名を以て行はれたりといふに止まり、定家の與り知らざる部分少からざるなり。それらの事につきてはその假名文字遣の序にいへる事を見て考ふべし。序に曰はく

京極中納言(定家卿)家集拾遺愚草の清書を祖父河内前司(于時大炊助)親行に誂申されける時親行申て云を お、え ゑ へ、い ゐ ひ等の文字の聲かよひたる誤あるによりて其字の見わきがたき事在之。然間以此次後學のためにさためをかるへきよし黄門に申之處に、われもしか日來より思よりし事也。さらば主爨が所存の分書出之進之由仰られける間、大概如此注進之處に申所悉其理相叶へりとて即被合點畢。然者文字遣をさだむる事親行が抄出是濫觴也。加之行阿思案之するに權者の製作として眞名の極草の字を伊呂波に縮なして文字の數のすくなきに、い ゐ ひ、を お、江 ゑ へ同讀のあるにてしりぬ、各別の要用につかふべき謂を。然而、先達の猶書漏されたる事共ある間是非の迷をひらかんがために、追て勘るのみにもあらず更に又 ほ、わ は、む う ふの字等をあたらしくしるしそへ畢。其故は、ほ は を によまれ、わ は は にかよふ。む は う にまぎる、ふ は又 う におなじきによりて、是等を書分て段々とす。殘所の詞等ありといへども是にて准據すべき歟。仍子孫等此勘勒之趣を守て可神秘々々。

と。これによれば、この假名遣を定めむと企てたるは當時大炊助たりし親行といふ人にして、定家の家集拾遺愚草の清書を依頼せられたる際に、その字例を一定せむと欲して企てしものにして、親行自ら立案し、定家の同意を得て實行せしものと思はれたり。拾遺愚草は定家の侍從たりし頃(拾遺は侍從の唐名)に、その家集にみづから名づけしものなるべきが、そを清書せしめしは何時なるか。按ずるに定家が侍從に任ぜられしは前後二度ありて、前には安元元年十二月より文治五年十一月までその任にあり、後には建暦元年九月より建保二年二月までその任にありしが、現本拾遺愚草の上卷、建保四年十二月十八日院百首の末にその書をかく名づくる由自ら記せるを見れば、最初拾遺愚草と名づけしものゝ本體はこゝまでにして、そを清書せしめしは建保四五年の交にあるべきものと考へらる。

さて又その親行といふ人につきて考ふるに、この人につきては本朝書籍目録外録水原抄の條に

親行は定家卿の母方の祖父也。假名遣の作者也。

とありて往々之を信ずるものあれども、この目録にいへるは藤原親行といふ人にして、尊卑分脉によれば、親忠の女子が俊成の室定家の母にして親行はその親忠の孫とし、又別に親忠の子ともせり。いづれにしても定家の外戚たるには相違もなき事なれど、祖父にはあらで、從兄弟か叔父かに當る人なり。然るにこの藤原親行には大炊助たりしことも河内守たりしことも見えず、又その孫に行阿といへる人のありし由も見えず。この行阿は如何なる人なるかといふに、この人はかの源中最秘抄の著者なりと傳へらるゝものなるが、前田侯爵家に藏するこの本の奧書によりてその俗名を源知行といひ、その父は義行、義行の父は親行なることを明確に知るを得るに至れるが、その祖父といへるに合すれば、こゝにいへるは源親行なるべきこと疑ふべからず。この親行は河内守源光行の子にして、光行以後行阿に至るまで累代歌學を以て知られたりし家に生れし人なりとす。この人は鎌倉幕府の祗候人として吾妻鏡に屡々その名の見ゆるものなるが、中にも建長六年十二月十八日の條には河内守親行と見ゆるを以て考ふれば、かの河内前司といへるにも合するを見るべし。この人は定家卿と學問上の交深かりしことは源氏物語の注たる紫明抄、又東野州聞書等を見ても知るべく、又頼経將軍の命を受けて萬葉集の校合をなしたるなどにて世に重んぜられし學者たるを見るべし。その大炊助たりし時は何時か明かならねど、承久の亂の時に民部大夫(五位丞)たりし由なればそれより以前の事なりしは疑ふべくもあらぬが、恐らくはかの建保の頃にてありしならむ。

今この序によれば、定家と親行との合意によりて、この假名遣は決せられしものと見ゆるが、定家が假名遣に留意せしことは、明月記(和歌事類に抄せり。現行流布の明月記に見えぬははやくその部分の逸せし爲ならむ。)正治二年九月二十七日の條に、

又参南殿。今日被進御歌於院百首御清書、色紙雖打わざとうちたると見えぬほどに打也。たけたかき色帋也。依仰一反見之、無僻事志ろたえとアルヲ志ろたへと可候之由申畢卷之。

と見えたり。此によりて考ふるに、定家は既にこの頃より假名遣の正否につきて考を有したりし人なりといふべし。然らば、その詠草を清書するにあたりて親行のこの提案ありし際には、同意を表したりしことは、有り得べき事といふべし。

さてこゝに注意すべきは定家の認めし假名遣と世に所謂定家假名遣といふ書とは同じものにあらぬ事なり。世に普通に定家假名遣といへる書は既にいへる如く、本名を假名文字遣といひて、かの行阿の増補編纂したるものなることは、かの序にて明らかなることなり。さればその序文を見ば、その区別は直ちに知らるべきものなれど、その基本が定家の認めしものにあればといふ精神にてか、或は定家の崇拝の絶対的なりし時代にその名を唱ふる方、その行はるゝに利便ありし爲か假名文字遣といふ本名よりも定家假名遣の名の方ひろく用ゐられ、これが爲にこの假名遣の真相が往々誤り伝へらるゝに至れり。これはもとより伝ふるものの罪にして假名文字遣の著者たる行阿の関知する所にあらざるべし。

さらばその定家の時の假名遣とは如何なるものなりしか。その假名遣の範圍はかの序文にも明言せる所にして、實に、

を お

え ゑ へ

い ゐ ひ

の三類八字の間にその用ゐ方の別を立てしものにして後世の假名遣と稍々趣を異にする点あるを見るべし。そは

(「を」「お」あれど)「ほ」なく

「は」「わ」      の別なく

「ふ」「う」「ゆ」   の別なく

「じ」「ぢ」「ず」「づ」の別なき

ことなり。即ちこれらの區別が當時問題となりてあらざりしことなり。然れども、かくいはむには、なほ多少の顧みるべき點あり。その序文には「い ゐ ひ等の文字」といへれば、その「等」は所謂「外等」にしてその外のものをも指してあらむかといふことなり。然れども、この事は行阿が序中に、

加之行阿思案之するに權者の製作として、眞名の極草の字を伊呂波に縮なして、文字の數のすくなきにい、ゐ、ひ、を、お、え、ゑ、へ、同語のあるにてしりぬ。各別の要用につかふべき謂を。

といへるにてこの八字以外のものは當時假名遣上の問題となりてはあらざりしを見るべきなり。

今之考ふるに、今はア行ハ行ワ行共に混同し易きさまになれるに、この頃ハ行にては

  ひ へ

の二字が「イ」「エ」の如く發音せらるゝものあり、ワ行にては

  ゐ ゑ を

の三字が「イ」「エ」「オ」に同じ様に發音せらるゝに至りしものありしを告ぐるものといふべし。而して之をかの前章にいへる假名沿革史料等にあげたる假名遣の違例に照すに、大體一致する點ありて、たゞ「ウ」「フ」の二の存せざる點のみを異なりとするが、この「ウ」「フ」がこゝにあげられざるは恐らくはその違例はなほ微々たるものにして著しく社會の問題とならざりしが爲なるべし。果してこの推測にして誤らずとせば、この假名遣に上の八字を限りてあげたる事は、當時眞に混亂して統一を認め難きものありしが爲なりしなるべし。かくの如く考へ來る時は、定家假名遣の起るに至れるは當時文献の統一整理の爲、社會の必然の要求によれるものにして、世に往々考へらるゝが如く、定家の獨斷專恣に出でしものにあらざるべきなり。

さてかくの如く親行が起草して定家の同意を得て定められし假名遣は如何なるものかといふに、普通には前にいへる如く、假名文字遣をさして、定家假名遣と呼べるによりて、この書にかける所即ち定家の定めたるものと認めてあるが如し。然るにその序によれば、前述の如く、その書き分つべしとせる假名が八字三類に止まれるに、その書には「は、わ」「む、う、ゆ」「ほ」の遣ひ方をもあげたれば、そは決して定家假名遣そのまゝにてはあらずして、少くとも後の増補の存すべきは想像に餘りあり。而してその事はその書の序の中に、

然而先達の猶書漏されたる事共ある間、是非の迷をひらかんがために、追て勘るのみにもあらず、更に又ほ、わ は、む う ふ の字等をあたらしくしるそへ畢。

といへるにても明かなり。然らば、定家の時親行の草せし假名遣はこの假名文遣よりは簡單のものたりしことは疑ふべからず。

かくてこの定家の時の假名遣とおぼしきものには定家卿口傳と題する書あり。下官集と題する書中の嫌文字事の條あり。人丸秘抄と題する書あり。又三藐院關白臨定家卿書といふありてそれにも定家の假名遣をあげたりといふ。さてその下官集には語學叢書に収めたるもの二種ありて一は弘安七年の識あり,一は文永三年及び元徳元年の識あるものなるが、その弘安本の方には、

を お

え へ ゑ

ひ ゐ い

ほ ふ ひ ふ

等をあげたるが、その「ふ」以下には各「今入」と注せるを見れば、何人か後人の増補なることは明かなるが、それを除きてもなほ「ほ」がかの定家の定めたりと、假名文字遣の序文にいへる所に存せねば、これも後の増補なるべきなり。次に定家卿口伝を見れば、これには

端のへ 中の江 奧のゑ

端のほ 中のを 奧のお

端のい 中のゐ 奧のひ

とあれば、これまた「ほ」の部の増補せられたる本にして、かの定家卿の認めし時のものよりも「ほ」の一項増加せるものなり。かくて文永本の下官集を見れば、

を お

え へ ゑ

ひ ゐ い

の三項八字にして人丸秘抄も亦然り。これによりて考ふるに、吾人は先づ、人丸秘抄、文永本下官集を以て定家卿の批定せし假名遣の實状に近きものならむと推定するを妥当とすべきなり。こゝに於いてこの二本を比較するに、その記載する所互に出入あれど、文永本下官集の方最も簡單なれば、この本最も古き姿を伝ふるものなるべきかと考へざるを得ざるなり。この本に載する所は甚だ簡單にして今その全体をあぐることもさまで難事とせず。曰はく、

緒之音を ちりぬるを書也仍私用之

 をみなへし をとは山 をくら山

 玉のを をさゝ をたえのはし

 をくつゆ てにをはの詞のをの字

 (人丸秘抄にはこの末に三語を加ふ。)

尾之音お うゐのおくやま書之故也

 おく山 おほかた おもふ

 おしむ おとろく おきのは

 おのへの松 花をおる おりふし

 (人丸秘抄にはこの末に五語あり。)

え枝 梅かえ 松かえ たちえ ほつえ しつえ 江

 笛ふえ 斷たえ 消きえ

 越こえ きこえ 見え

 風さえて かえての木 えやはいふきの

 (人丸秘抄にはこの末に「いりえ」あり)

  近代人多え(三藐院本ゑ)とかく

  古人所詠歌(歌字三藐院本による)あしまよふえを以て可證。

 うへのきぬ 不堪 たへす 通用常時 しろたへ

 草木をうへをく栽也

 まへうしろ ことのゆへ(栢かへ)

 やへざくら けふこゝのへ さなへ

 とへ問答 こたへて おもへは

 (人丸秘抄には「栢」なくして他に七語を所々に加ふ。)

 すゑ ゆくゑ こゑ こすゑ

 繪  衛士 ゑのこ(詠 朗詠 ゑい)

 (産穢ゑ) 垣下座 ゑんかのさ ものゑんじ怨也

 (人丸秘抄には「詠」「産穢」なくして末に「つゑ」あり。)

 こひ (おもひ) かひもなく

 いひしらぬ(あひ見ぬ) まひゝと

 うひこと おひぬれは おいぬれは常時也

 いさよひの月 但此字歌秀句之時皆通用

 (人丸秘抄には「おもひ」「あひ見ぬ」をかき外に四語を加ふ)

 藍あゐ つゐに 遂に色にそいてぬへき 池のいゐ

 よゐのま

 (人丸秘抄には外に五語を加ふ。)

 にしのたい 天かい

 (人丸秘抄には五語を加ふ。)

實にたゞこれのみなり。しかも、このうち「栢かへ」「詠ゑい」「産穢ゑ」「おもひ」「あひみぬ」の五は人丸秘抄に見えぬ所なれば、恐らくは原本になくしてこの本に補はれしものならむも知られず。さてこの下官集とは如何なるものなるかといふに、これは假名遣のみならず、歌草子などの書きしるし方を録せるものなるが、その文永本の奧書には

文永三年四月下旬新大納言以御自筆本書寫之。同點了。努々不他見

とあり。これを下官集と名づるは本文の中に「下官訂此説」「下官用之」などあるによりて誰人かこの名を加へしものならむが、元來「下官」とは第一人稱の謙稱にして、筆者の自ら稱へしものなれば、之を以て書名とせるは無下に拙きわざなり。さりながらここに下官と自稱せるは誰人なるか。傳説の如くならば定家その人ならざるべからず。然れどもかの假名文字遣の序を正しとせば、之をこゝに採録せるは定家とすども、その假名遣の草者は親行たるべき筈なり。かくてその假名遣の條のはじめに曰はく、

一、嫌文字事

他人摠不然又先達強無此事、只愚意分別之極タル僻事也。親疎老少一人無同心之人、最所謂道理ナリ。況且當世之人所書文字之狼藉過于古人之所用來、心中トス

とありて、その趣旨を明かにせるが、その末には

右此事は非師説、只發自愚意。見草子之。

とあり。こゝに「非師説」といへるは如何なる意なるか。この假名遣の起草者をば親行とせば、その師とは親行の師たる人ならざるべからず。その親行の師とは誰人なるか、親行の父光行は俊成の弟子なれば、定家の家は親行の師家なりといひてもよかるべく思はるゝが故吉澤博士などかくの如く説かれたるやうなれど、然りとせばこれを定家の書にとり入れしさまを見るに、稍々不穏當の感あり。按ずるにこれはさる定まりたる師ありと確かにさせる意にはあらずして、たゞ、この説は師伝をうけたるものにあらずといふに止まるべく、かくて愚見の發明説なりといへるものならむ。この故に余はこの師とは特定の人をさせるものとは考へざるなり。凡そ当時にありて何事も師伝を重んじたるものなれば、こゝに古來未發の説にして師傳によれるにあらざる事をことわれるものといふべきなり。

然らば、この假名遣は全く親行の独斷に出でたるものなりやはた何等かの根據ありやと考ふるに、「を」「お」の下には各いろは歌の用例を以て之を證し、又「え」の條の末に上にもあげたる如く、

近代人多ふゑとかく

古人所詠歌あしまよふえを以爲證。

といひ、又

不堪 たへす 通用常時

といひたるを見れば、古來又は當時通用の事實を基礎として定めむとしたることを告ぐるものなり。而して又

いさよひの月 但此字歌秀句之時皆通用

といへるも亦、この言ひかけの事を證としてその假名遣を證せむとせるものなり。されば、かの跋の語に「只發自愚意」と謙遜しながらも或は「當世之人所書文字之狼藉過古人之所用來」といひ或は、「見舊草子之」といへる所以をも見るべし。即ち、かれは、當時行はれし前代よりの草子類の用例を見て、それを帰納したりしことはこれらの説明にて明かに知らるゝなり。

然るに、その定めたる假名の實例を見るに、

をくつゆ おしむ

おきのは おのへの松

花をおる おりふし

かえての木

草木をうへをく ことのゆへ

ゆくゑ おひぬれは

つゐに 池のいゐ よゐのま

などの如く僅々七十餘箇の例中十五箇も正しからぬ例の存するは何故なるか。全然古來の例證により、又當時汎く用ゐたる旁例によりたりしものとせば何が故にかゝる事の生ぜしか。これによりて考ふるに、古來の慣例によりて定むといふ主義によれりしことは明言せられたれど、事實に於いては之によりて一貫せりと見えざるなり。何が故にかゝる現象を呈するかは深く考慮すべき問題といはざるべからず。催ふに、この時に親行がその典據とせしものは、かれが「見舊草子之」といへる語にて推すに、古くとも、平安朝の中期の和歌集、又物語、日記等にありしものなるべきか。果して然らば、當時多くは既にこれらの假名遣の混亂せし時代のものたりしなり。惟ふに今にして、親行の據とせし舊き草子類の如何を見ること難しといへども試みに、平安朝末期以後の書寫と傳ふる傳本につきて見るに、頗る亂雜なるものありて、この假名遣の比にあらざるものありたりとおぼし。されば、その間に多少自己の見識を以て斷ぜるものもありしならむといへども、そのよる所は存したりしものなるべく、たゞその據る所のものが既に混亂を起したりし時代そのまゝのものなりしが故にかゝる現象を呈したるものならむと一往は解釈せざるべからざるなり。

さて以上はかの行阿の序文にいへる範圍に合し、しかも最も簡單なるものを以てかの親行の起草せし所謂定家假名遣の原本に近きものと見なしての論なるがその原本は果してその如きものなりしか、今これを正確に知る由なければ、姑くこれを基として、その後の変遷を論ぜむに、かの弘安七年の奧書ある下官集にありては「今入」と注せるもの頗る多く、

 「を」の部に九語

 「え」の部に十九語

 「へ」の部に四十七語

 「ゑ」の部に三語

 「ひ」の部に十一語

 「ゐ」の部に六語

 「い」の部に七語

を算し「お」の部には「今入」といふ文字の記入見えねど五語の増加あり、その他にも「今入」の注記多くして二三の増補あるを見る。かくて又別に人丸秘抄を見るに、弘安本とは別の系統に於いて文永の下官集に比して、

 「を」部に三語

 「お」部に六語

 「え」部に一語

 「へ」部に七語

 「ゑ」部に一語(但文永本は別に二語多し。)

 「ひ」部に四語(但文永本は別に二語多し。)

 「ゐ」部に五語

 「い」部に四語

の増補あり。されば、その成りしより後漸次に人々の手によりて増補せられ來りしものなりしならむ。

かくて定家卿口伝と題する書に至りては「ほ」の假名遣を加へたれば、その項目に於いてはやくも本來の定家假名遣のまゝにあらずなりたり。しかもこの書にはその假名を區別し易からしめむが爲に、かのいろは歌に於けるその字の位置によりて「端のい」「中のゐ」「奧のひ」などいふ名目を立てて、記憶識別に便せるは、下官集に「を」「お」の下に注記せることより進み來れるものと思はるゝが、かれはその證とし、これはたゞ識別に便せむ爲のものなれど、なほかれによりて思ひつきしものと考へらる。さてこの書にてはその語の數も頗る多くなりたれど、又語によりては出入の少からざるを見るものなれば、別にこの系統の本ありしものが増補せられしものならむか。而してこの本はその標目の外に、末に「わ」を用ゐる語四をあげて示したり。これはその「ほ」にて終れる本に更に後人の増補せしならむ。思ふに、かくの如くにして、かの定家假名遣も漸次に異本を生じ、ここにそれらをば、更に整理統一すべき運に向ひしものならむ。かくてその運に乗じてあらはれしもの、即ち行阿の假名文字遣なりしなるべし。

假名文字遣は定家の假名遣を基として行阿が増補せしことはその序によりて知らるゝこと既に述べし所なるが、この書にあぐる所は定家の假名遣に対して多くの語を各標目の下に加へたるのみならず、その假名遣の項目も亦多くなりて、五類十四字となり

(を お の上に)「ほ」を加へ、

(え ゑ へ は定家のに同じ。)

(い ゐ ひ は定家のに同じ。)

「わ」「は」

「む」「ふ」「う」

の二類六字を加へたり。この事はその序に、

然而先達の猶書漏されたる事共ある間是非の迷をひらかんがために、追て勘るのみにもあらず、更に又、ほ、わは、むうふ、の字等をあたらしくしるしそへ畢。其故はほはをによまれ、わははにかよふ。むはうにまぎる。ふは又うにおなじきによりて是等を書分て段々とす。殘所の詞等ありといへども是にて准據すべき歟。

といへるにて明かなりとす。

この書板本數種あり。多くは假名文字遣と題すれど、又定家假名遣と題するものあり。(元祿十一年戊寅歳卯月吉日書林戸倉屋喜兵衞刊と署せる半紙本の如きこれなり。)而してこの最も古きは慶長元和の頃の版なるべく思はるゝ美濃紙判の本にして奧に

寫本云

此一册小僧紹巴以數多之本考勘之、而舛謬猶有之。先哲言校書如塵挨風葉隨掃隨有云々。可後君子而已。

天文二十一重陽前日記之    稱名野釋 御判

とあり。この奧書は稱名院藤原公條の書きしものなり。これより後元祿十一年の半紙本、正保五年の美濃半截縱本、又別に美濃半截横本あり。奧書いづれも舊の如し。その他貞享の板本寛政の板本等ありといふ。

この奧書によれば、今の板本は連歌師紹巴が數多の本によりて校訂せし由なるが、然りとせば、紹巴の時に既に數種の寫傳本ありて異同少からざりしさまなりとす。かくてその古寫本は如何といふに、語學叢書には、文明の寫本及び文安の寫本の二種ありといへり。その文明本とは舊不忍文庫本にして、それには

文明十年二月八日書寫了

以禁裏御本書之    按察使親長

といふ奧書ありて、序文本文とも版本とほゞ同じけれど、版本はこの文明本より語の數多く、又語の順序も等しからぬ由にいへり。而してこの本には卷末に別に定家卿口傳及び人丸秘抄を添へたりといふ。この卷末の二書は版本には目録には載せたれど、本文には見えぬものなり。文安本とは

此双子以證本一字書寫之。依左衞門尉藤原氏保所望經年月也。眞實早筆之體多

文安五年二月二十三日   平常縁 花押

といふ奧書ありてその本文は文明本にほゞ同じくして目録及び附録なしといへり。餘が藏する本は先づ

此寫本之漢字有鳥烏焉故令予正一レ之、雖于顙、以應命。寔是最効者乎。伏希后賢之穿鑿云。

といふ奧書あり。次に

此本之類希有也。尤重寶可秘令一考

天文二十一壬子歳卯月二十八日寫之

とあり。而して、天文云々の前に別に淡墨にて、

文安四年八月日    行年三十九 忠通在判

とあり。これ蓋し文安四年の本によりて後に記入せしものか。

さてこの假名遣は紹巴の校合せし時異本多かりしさまに考へらるゝが、その校本は文明本よりも語數多きを見、又餘が寫本には別筆にて補ひしものあるを見る。されば、その行阿の原本より今の板本になるまでに幾何かの増補ありしものと見らるべきものなり。これらの事の一班をいはむに「をかの次にある。

  をやまだ 小山田

「いはくらをの」の次にある

  とをさとをの 遠里小野

「をす」の次にある

  をしはかり 推量

「をし」(鴛鴦)の次にある

  をとり 雄

「をし」(鼠弩)の次にある

  うを 魚

「をこのもの」の次にある

こをけ 小桶 をほひ 帊

曉をき  み山をろし

かたをなみ  たをす

あをり たかさごのをのえ

まとをの衣 あひをひ

をし明かた をさへて

をろそかなり たをれもの

をきのゐて

「すさのをのみこと」の次にある

  をのゝこまち

の如きは餘が寫本には見えぬものなり。次々の部も之に準じて知るべし。これらのうち或は餘が寫本に寫し漏したるものもあるべからむと思はるれど、他に別筆にて記入し、又一二版本文明本になきが加はりたるもあれば、これらすべてを誤りて脱せるものとはいふを得ずして、その大部分は後の増補と見るを妥當とすべきものなり。ことに「をこのもの」の次にある十五語の一團の如きは後の増補と見るべきものならむ。かくて他の部分も大體右の如くなるが、これによりて略推測せらるべきを以て、今これを詳説せず。されば、この行阿の假名遣も亦その成立後、後人の増補少からずと考ふべきものなるが、その増補は、たゞ例語の上に止まりて、かの十四字の標目の範圍外に出でたるものなきなれば、根本の主義に變更を來したることはなきものなりと思はる。

さてこの行阿の假名遣は何を標準として之を定めしものか。定家の假名遣は嚴密にいはば,もとより異論もあるべきなれど、それ自身が歴史的典據なりと信ずるものを準據とせしことは既にいへり。然らば、行阿も亦この主義によりしものか。行阿の假名遣の序にも、其の他にも之を明かにすべき點を明言せるを見ず。たゞその本文中、所々に、たとへば、「を」の部中に

花をたをる 花手折 唯折はおる(「お」の部に「花をおるはお折」とあり)

をうと 夫 おとこの時はお

をとゝ 弟 おとうとの時はお

をそれ 恐怖 おそる時はお

きをひむま 競馬 きおふ時はお也

をや 親 おやこはお

「お」の部中に

山おろし 山颪 み山をろしはを

露をおもみ お重 をもしの時はを

といへるが如きを見るに「を」と「お」との區別は同源の語ながら

折る

夫、男

恐る

競馬

等に於いて、その用ゐる場合を異にするによりて二樣に區別せらるゝことは、その理由とする所知るべからず。これによりてこの假名の區別は四聲によりて區別せるならむといふ推定を下したるものあり。これは村田春海の假字大意抄に、

今行阿がしるしおける大よその意を考へ侍るに、漢字に四聲輕重などいふ事のあるになずらへてさだめたるものと見えて桶はただ桶といふ時は於の假字、小桶といふ時は乎の假字、重をおもしといふ時は乎の假字、おもみといふ時は於の假字などと、唱へによりて分たんとおもへるなり。

といへり。今この説を姑く代表的のものと見てすゝむべきが、假にこの事を認むとしても行阿自身が四聲によりて區別を立てたりと明言せる所一もなく、なほ又、かく同源の語にして用ゐ所によりて、假名のかはることを説けるものはこの「を」「お」の關係のみに止まるが如く、その他の部分に於いてかゝることを説けるを見ず。而してたとへば同じく「お」「を」の部にても

あをく あふくとも 仰扉

さをしか さほしかとも 牡麚

ひしを ひしほとも 醬

おに 鬼 をにとも

の如くいへるは、これ舊來の慣例かくありといひてあげたるにて之を否定せざることは明かなり。さて以上によりて考ふるに、それらは別に四聲によりて區別の標としたりとは見えざるのみならず、「を」「お」の他にてはたとへば「え」の部の

なえく

えふ

える

「ゑ」の部の

ゑふく 衣服

「へ」の部の

うへをく栽植(人丸秘抄に出づ)

はへ鮠

いへくすり いえくすりとも愈藥

うへたり飢

かつへこうじたり飢極

ことのゆへ事故糸寄故(人丸秘抄に出づ)

たゝへて湛

「ひ」の部の

くひて悔

ねたひかな嫉妬

「い」の部の

ひたいくり額栗

とりかい鳥養

すいかん水干

ほたくい煨

くい くゐとも 杭

いひかい

ついて次

ういかぶり初冠

御すいしん御隨身

ゆけい靭負

ゆけいまち中御門

ふけいのうら吹飯浦

あいよめ妯娌

あいむこ婭

「ゐ」の部の

えゐ  鱏

くゐな水鷄

あさかれゐ朝餉

もちゐ餅

やなくゐ箶箙

かれゐひ餉

つゐに ついにとも遂終竟(人丸秘抄に出づ)

にゐまくら新枕

しゐておる強折

あきしゐ清盲

いもゐ齋居

しゐね瘤

よゐあかつき宵曉(人丸秘抄に出づ)

ふけゐかは吹飯河

へうゐん苗胤

いもゐのには齋場

かしゐのみや香稚宮

等の如きものあり。これらは餘が古寫本にも存して、しかも、その假名遣の正しからぬものなりとす。(餘が吉寫本に存せずして他の本にあるものも多けれど、それらは更にこれより後の人の増補と考へたれば、今除きていはず。)而してかくの如きは何を標準とせしものか、今にして容易に知るべからざるなり。然るにかくの如き異例は主として、かの定家の原本に規定せし八項目のうちに存するものにして、その行阿の増補せし六項目にありてはかゝる事は殆ど存せざるなり。即ち行阿の増補せる項目中の正しきに違ひたる假名遣の例(語數の最も少き餘が古寫本による。)を見るに「ほ」の部に

かほる匂薫

「は」の部に

枝もたははに枝撓

ことはり理

「ふ」の部に

うふる栽植

の四例が今日認められたる正しき假名遣と違へるのみにして、(この他になほ少しく違へる例板本にあれど、餘が古寫本になきものはそれより後の増補と認めたれば、あげず)これをその全數に比するに、實に次の如し。

「ほ」の部 七十二語 の中一語違ふ。

「わ」の部 二十語

「は」の部 八十八語 の中二語違ふ。

「む」の部 三十語

「う」の部 百三十八語

「ふ」の部 百二十四語の 中一語違ふ。

即總計四百七十二語のうち正しき假名遣に違へるものは僅に四語のみ(以上の數はすべて家藏の古寫本にて算せり。これ餘が知れる本中最も古き姿を存すと見ゆればなり。)されば、行阿の新に加へし部類は即ち古來の慣用例を標準としてこれによりたるものたることを首肯しうべくして、この僅々百十八分の一の錯誤を以て行阿の假名遣を指して古語を無視したるものと強ひ、又契沖以後に到りてはじめて古典に典據を求めたる假名遣出でたりとするが如きは無據の空言にして世を誤り人を誣ふるものといふべし。

この故に、行阿の假名遣を四聲によりて區別したるならむといふ事は全く的をはづれたる議論といふべきが、しかも、かの如何なる理由によりてかくせしかの明らかならぬ違例の假名遣は主としてかの定家の假名遣の標目中に存するものなり。而してその「を」「お」の區別が、定家のに準據したるものなる如く見ゆると同じく、その他の部分も亦その主義によれりと思はるゝなり。この故に若し行阿の假名遣が四聲によりて區別する主義を立てたりといはるべきならば、その論議の標的は定家の假名遣にうつさるべきものなりとす。さてかゝる論議の發せられたるものは村田春海よりも遙に前、長慶天皇がその御撰の仙源抄の跋にて、論ぜられたるを管見に於いて最も古しと認む。(この書は明魏山人藤原長親の奧書ある本によりて傳はれるが爲に、往々長親の作の如くに誤解せらるれど、長親が既に「此抄者長慶院法皇聖製也」と明記せるのみならず、仙源抄の名、明かに仙洞御撰の源氏物語の抄なる由を告ぐるなり。而してこの跋文も亦天皇の御製なること疑なし。)その論に曰はく、

中頃定家卿さだめたるとかいひて、彼家説をうくるともがらしたがひ用るやうあり。(中略)しばらく、いろはを常によむやうにて聲をさぐらば、おもじは去聲なるべし。定家がおもじつかふべき事をかくに「山のおく」とかけり。誠に去聲とおぼゆるを「おく山」とうち返していへば、去聲にはよまれず、上聲に轉ずる也。又「おしむ」「おもひ」「おほかた」「おぎのは」「おどろく」などかけり。これらはみな去聲にあらず。此内「おしむ」は「おしからめ」といふおりは去聲になる。思も「おもひ/\」と云おりは初のおもじは去聲、後のは去聲によまれぬ也。又え文字も去聲なるべきに、「ふえ」「たえ」「えだ」などかけり。すべていづれの文字にも平上去の三聲はよまるべき也。(中略)定家かきたる物にも緒の音を尾の音おなどさだめたれば、音につきてさたすべきかと聞えたり。しかれども、その定たる所四聲にかなはず。又一字に義なければ、そのもの其訓にかなふべしといひがたし。音にもあらず、義にもあらず、いづれの篇に付てさだめたるにか、おぼつかなし。

とあり。今この批難は定家の假名遣につきて放たれしことは明かなるが、その論ぜられたる假名の範圍も定家の假名遣の範圍を出づることなければ、この點は疑なき所なりとす。さてその定家の假名遣は一面古來又當時の用例によれることは明言せるものなるに、一面には何の故にかくせるかの點の明かならざるものあることは既に述べし所なり。而して、その「を」「お」の區別の如きは長慶天皇の御言の如く、聲の上去などの別によれりと見るほかに解釋の下し方なきを見る。もとよりその「を」「お」が上聲去聲の區別を示すものなりといふが如きことは今日より見て不條理なるに相違なけれど、しか見たるものと考へなば、稍々理由ある如く思はるるを以て見れば、この説一概に排斥すべからざるが如し。然らば、この點が、かの「自らの愚意を發したり」といふ點なるか。しかも一方に於いて、古今世間通用の事例を據としたる由をいへば、全然私見を以て定めたりともいふべからず。之によりて按ずるに、若し、然か四聲の區別によりて、「を」「お」の用ゐ方をわけしものとせば、さる事が、この假名遣を定めたる以前に既に世に多少なりとも行はれてありしものと見るべきなり。若し既にその意見世に行はれてありしものとせば、而して親行がそれによりて之を襲用したるものとせば、かれの主義と、この聲の別によりて「を」「お」を分つことゝの間に何等の矛盾なくして、はじめてその制定の眞意を明かにするに足らむ。かくてこの假説はこれ以前に「お」「を」を以て平上去等の聲の別をあらはすに用ゐたりといふ實證を得ば、一定の説となるべきものと思はるゝが故に、これにつきて考ふるに、袖中抄には屡々上聲平聲の區別を言語のある辨別法に應用せむとしたることは世人の知る所なるべきが、その卷三「さほひめ」の條に、

今云さほひめは諸髓腦云春を染る神也云々。但其聲如阿、さをと上聲可詠歟、さほと平聲可詠歟。今案にさほ姫は(中略)然ればさほとのさほ山さほ川みな棹の聲也。平聲に可詠也。(中略)五條三品入道はなにとは不知只さほ姫と上聲に申付たりと云々。慥に不沙汰は大樣如此云々

といへり。これははじめには

  さを 上聲  さほ 平聲

とかき、後には

  さほ 上聲

とかけるなれば、假名遣の上の證にはならねど、上聲平聲の區別に注意せることは明かなり。惟ふに、かくの如く聲の平上去の別といふこと當時學者間に論ぜられてあり。而してその聲の別をば、別なる假名にてあらはさむとせること既に學者の腦裡に萌芽を生じたりと考へられざるにもあらねば、それらよりして後の學者がこの區別を以て假名遣の上の一種の原理と立つべきに到ることは必ずしも有りうべからざることにあらざるべきを以て、若しこの事ありしものとせば、それによりて一定の規律を立てむと試みしものが、かの定家假名遣となりしものにあらざるかの假説はあながちに不條理ともいふを得べからざるなり。

以上説く所の如くなれば、行阿の増補は古來の慣例に準據したるものにして、所謂その時代の發音によれるものにあらざるはもとよりなるが、所謂定家の假名遣とても、その精神と主義とは世の慣例に從ひて之を合理的にせむとせしことは明かにして、獨斷的のものにあらざるのみならず、又表音主義なりとも斷ずべからざるものなり。その正しき假名遣と異なる状態を呈するに至りしものは、一にその標準とせしものが正しからざりしが故なるべく思はるゝなり。然るにこの二者共に明治時代の國語學史研究家に語勢的假名遣などゝいふあらぬ名目をつけられて、契沖に至りてはじめて歴史的假名遣の起れりとやうに説かれたるは奇なる現象にして、これ或は從來の國語學史研究家がこの定家假名遣行阿假名遣を精査せざりしによるものならむ。

定家行阿の假名遣出でゝより歌を記載するはもとより、諸の物語草子また連歌俳諧などに至るまで皆之に準據したりしものにして、それらの道の名家共或は之を寫し傳へ、或は之を校訂し、或は之を増補して江戸時代に及べり。今その間に於ける著しき事例をいはむか、先づ「行能卿家傳假名遣」といふ寫傳本一卷あり。これは世尊寺行能卿の子孫の家に傳へたるものにして行阿假名遣の亞流たり。又「持明院家傳書」と稱するものゝ第五に「後普光園院御抄」一卷あり。これは二條良基の撰と傳ふるものにして行阿假名遣に基づきて末に多少の増補あり。又一條禪閤兼良の作と傳ふる「假名遣近道」と題する寫本(東北帝國大學藏詞林三知抄と合綴)あり。上の良基撰の書と似たれど、別のものなり。又「持明院家傳書」第四に「假名遣近道抄」といふ寫本あり。これは三條西實隆の著にして、上の兼良の撰に似て異なるものなり。勢州軍記上卷には北畠教具が定家假名遣を補へる由見ゆ。なほこの他にも之が増補をなしゝ人はありしならむと思はる。かくて又紹巴は前述の如く、行阿假名遣を異本をあつめて校合せしなり。

定家假名遣はその精神に於いては明治時代の學者の論ぜし如きものにあらずして、なほ慣例を重んじ、之によりたるものたることは明かなるが、しかもその「を」「お」の遣ひ分けの如きはなほ一種の獨斷といふの外なく、之に對して何等合理的の根據を示しうべきにあらざるはいふまでもなし。然れども、鎌倉時代の中期以後歌文界を通じて定家の名は絶大の威權を有し、苟も之に反抗せむとするが如きものは殆どなかりしものにして、かの正徹をして、

抑於歌道定家を難ぜん輩は冥加あるべからず、罰を蒙るべきなり。

と語らしむるに至れるものなれば、この時代を通じて定家の名によりて行はれたるこの假名遣の絶對的權威を有したりしは勿論の事なりとす。

然れどもさる間にもなほこの假名遣に對してその條理なきを批難したるものなきにあらざりしなり。その一人は萬葉集研究家として名高き成俊にして、一人は上に述べたる長慶天皇なりとす。

成俊は三井寺の僧にして權少僧都たりしなり。元弘建武の頃世の亂を避けて信濃に下り、姥捨山の麓に草庵を營みて、住みしが、その萬葉集研究の結果、定家の假名遣の之に合せざるをさとりて、之を批難し、自家の見識を示せり。曰はく、

抑於和字音義京極黄門之以降、尋八雲之跡之輩高卑伺其趣者歟。仍天下大底守彼式而異之族一人而無之。依之人々似萬葉古今等之字義者也。僕又專彼式而用來年久。今時又不之將來又以可然者也。但特地於萬葉至于書加和字於漢字右而聊引散愚性之僻案偏任當集之音義之也。是非自由、是非所詮。其故依當世之音義書其和字之則違萬葉集儀理之事在之。所謂當集者遠近之遠字之假名者登保登書之、草木枝條之撓乎者登乎登書之。當世遠近之遠字和音者登乎登書之。然者用書此和音者所集之語相違也。又書字惠者殖也書宇邊者上也 此外此類難之、恐繁而註別紙之而已。

とあり。これ北朝文和二年八月二十五日に加へし跋の文なり。即ちかれは一面に於いて自己は定家假名遣を用ゐて違背せぬことを明言しおきながら、一面に於いて、その假名遣が萬葉集古今集等の字義に背けることを指摘し、萬葉集の假名は萬葉集の實例に隨ひて定めざるべからざるを論じ、その仔細は別紙に之を注せる由いひたるが、その別紙なるものは今傳らずと見ゆれば、その委細を知るに由なし。

長慶天皇はその御撰仙源抄跋に於いて定家の假名遣を批難せられしことは既にいひたる所なるが、その假名遣の從ひ難きことをいひて、

抑文字づかひの事此物語を沙汰せんにつきては心うべきことなればついでに申侍べし。(中略)おほよそ漢字には四聲をわかちて、同文字も音にしたがひて心もかはれば仔細にをよばず。和字は文字一に心なし。文字あつまりて心をあらはす物なり。されば古くより聲のさたなし。(中略)まづいろは四十七字の内同音有はい ゐ、を お、え ゑ也。此外にはひふへほをわゐうえをとよむは詞の字の詞に付てつかふ文字也。(中略)すべていづれの文字にも平上去の三聲はよまるべき也。たとへば、か文字とみもじとをあはせむに、かみ神也かみ上也かみ紙也又一字にてはは木葉也は樂破也。しかのみならず同心にて同字をよむに上字にひかれて聲かはる事あり。天竺悉曇の法に連聲といふことあり。又内典の經など讀にもに聲明の音便によりて聲をよみかふることのあるも皆此類成べし。かみかみ神々といふにはじめのかもじは去聲によまる。又一字にとりても序破急といふおりははの字平聲によまれ、破をひく、はをふくなどいふおりは去聲になるたぐひのごとし。これにてしりぬ。和字にもじづかひのかねてさだめをきがたき事を。定家かきたる物にも緒の音を、尾の音おなどさだめたれば、音につきてさたすべきかと聞えたり。しかれどもその定たる所四聲にかなはず、又一字に義なければそのもじその訓にかなふべしといひがたし。音にもあらず、義にもあらず、いづれの篇に付てさだめたるかおぼつかなし。然れどもにはかに此つかへをあらたむべきにあらず。又ひとへに是を信ぜば、義に叶べからざるによりて此一帖には文字つかひをさたせず。かつは先達の所爲をさみするに似たりといへども、音に通ぜむものはをのづからこの心をわきまへしれとなり。

即ちこの跋に於いては音によりて假名を分ち遣ふことの非を十分に指摘せられしものにして、定家の假名遣が、音によれるにあらず、義によれるにあらず、何等の根據なく一定の條理なきを難じ、殆ど完膚なきまでに攻撃せられたり。この、音によりて假名を遣ひわくる事の不可能なるはいふをまたざれど、こは定家假名遣の根本主義にあらざることは既に述べたる所なり。されど、もとよりこの批難は定家假名遣の避くるを得ざる弱點なるはいふまでもなし。而してこの御著に於いて「文字づかひを沙汰せず」といはれて別に之にかはるべき方法を示されざりしなり。

以上の如き條理ある反對と攻撃とのありしに關せず、それらの反對攻撃に共鳴を起すことなくして大勢は滔々として進み、ます/\之を祖述するものを多く生じて、殆ど動かすべからざる状を呈して江戸時代に入りしが、契沖の出づるに及びて漸くに勢力を失ふに至れり。

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2004 | 08 | 09 | 10 |
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舩木直人(funaoto@hat.hi-ho.ne.jp)